「私の“居”場所。」〜奄美群島・加計呂麻島に渡って生きる小説家のはなし〜:前編

写真は、あまら和さんによるわたしの魂の光と闇の絵。

さて、2015年4月に受けていたインタビューを公開します。インタビュアーは、此下友佳子ちゃんです。


彼女からインタビューを受けることになったのはFacebookがきっかけでした。

友佳子ちゃんは当時、宣伝会議のライター講座を受講していて卒業前に「自分がインタビューしたい相手を選び、自分で取材から執筆・構成をしたものを提出する」という課題をやることになっていたそう。

しかし、取材したいと思える対象者がなかなか見つからないでいたところ、わたしの『未来住まい方会議 by YADOKARI』の連載『女子的リアル離島暮らし』を見て、その瞬間「この人だー!」と思ったそうで。

物凄く丁寧かつ熱のこもったFacebookメッセージで取材依頼をして頂き、関西から加計呂麻島まで来てくださり、取材してもらいました。

このインタビュー記事は最優秀賞は逃したものの、ドキュメンタリー賞という「最も人の心情やリアルさを相手に伝わる形で表現できる力がある」という評価を頂いたそう。

少々の訂正は私の方で入れさせて頂いたけれど、基本、ほとんど友佳子ちゃんが起こした記事のままです。

ロングインタビューなので何回かに分けて、アップしていきたいと思います。


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「私の“居”場所。」

〜奄美群島・加計呂麻島に渡って生きる小説家のはなし〜

前編


東京生まれ、東京育ち。現在は、「羽田から7時間以上かかる」鹿児島県・奄美群島の加計呂麻島(かけろまじま)に移り住んで3年目の小説家、三谷晶子さん。

生きづらかった20代。色んな絡みが解けて存在することが自然になった30代の今。

東京を脱出してこの南に遠く離れた島に辿り着くまでには、小説を通して“生きよう”ともがいてきた過去があった。

柔らかく波打ち人を受け止める青い海、大きなパワーを讃えしんと在る緑の木々たち。

そして人と人が手を繋ぎ共にいる加計呂麻島で語られたのは、今、そんな彼女にある「生きている」ということの答えのようなものだった。


第1章:加計呂麻島という離島に降り立って


『加計呂麻島』という場所をご存知だろうか。かけろまじま、と読む。

鹿児島県・奄美本島からフェリーに揺られて20分、人口1500人にも満たない小さな小さな島だ。聞けば、スーパーやコンビニはおろか銀行すらなく、もちろん、電車やタクシーもないという。

「仕事も遊びも都会が普通だった東京から移り住んで3年目。加計呂麻島は私にとって安心して戻って来れる 居てもいいんだと思える場所。生まれた場所という意味で故郷というと東京なんだろうけど、故郷の感覚に近いんです」

と迎えてくれた小説家の三谷晶子さんはいう。  

実は、筆者にも、ドキドキしながら初めて港に降り立ったその瞬間、力強い常緑の木々と柔らかい青緑色の海、 あたりに力強く咲く南国の植物たちが「よく来たね」と迎えてくれているかのような体感があった。

この島で暮らしながら、三谷さんは何を感じて、文字を綴っているのだろうか。

「島で暮らしていくと同時に、私にとっての小説の存在も変わって来たんです。小説はずっと、私にとって“現実と自分を繋ぐ命綱”のようなものだったけど、今こうして加計呂麻島に居る今の私にとってはもう、“わたしの一部”。書くこと、小説という表現を通して人生の捉え方が変わったのかも」

東京とは180度違う、一見“何もない島”で暮らす選択。目の前の三谷さんがとても自然体で、世の中の全てを受け入れているように見えたこと。

この島にはきっと、“何か”があるのだろう。

彼女が生業としている小説家業のこれまでを振り返ると、そんな生き方のエッセンスが見えてくるような気がした。


第2章:“小説”が生み出した、前を向いて生きる力


祖父が俳人、父親が編集者だったこともあり、幼い頃から本に囲まれ、文字を綴ることに馴染みがあった三谷さん。そんな彼女にとって小説というものが色濃く記憶されたきっかけは、中学生のときに作家「山田詠美」と出逢ったことだった。

「両親の離婚、父親の再婚、そして母と母の恋人と暮らすことになるなど、ぐちゃぐちゃに変わっていく家族という単位の中で、孤独に苛まれていたとき。『ぼくは勉強ができない(後述※1)』を読んで、これは自分だ、って、早く大人になりたい、って思えたんです。私は子供だから学校や家庭以外の居場所がない。けれど、大人になれば、私と同じように考える人がいる世界に行けるかもしれない。それって、希望と可能性、そのものじゃないですか。そのときから小説の持つパワーって凄いな、と魅せられたんですよね」

社会から外れないように人に価値観を委ねて生きるのではなく、自分は自分であるということを模索する主人公・秀美の生き方とそれを描く山田詠美の世界は、中学生当時の三谷さんの救世主となった。

高校生の時に初めて書いた小説は、新人賞で佳作入賞を果たした。そこから文字を扱う仕事を志し19歳の時に編集プロダクションの扉を叩いた。

徹夜を何度も繰り返して必死に働き、毎日文字に向き合い続けて何度も身体を壊した。結果、2年で退職。「結局身体を壊しただけで何もできなかった」という挫折感は、小説を出したいなんて夢を持ち続けることへの罪悪感に繋がっていったという。

仕事もお金もない、実家には頼れない、体調にも不安がある。自分の前に立ちはだかる社会の現実に疲れ切り これからどうしようかという時に、友人からの誘いで時間の自由がきくキャバクラでの仕事をとりあえず始めることになる。

文章で食べていくことの厳しさ、自分の中身を人前にさらけ出すことの怖さから「書く」ことから逃げ、小説を出す夢を先延ばしにし続ける毎日だった。


第3章:自分の居場所を確かめるデビュー作


「キャバクラでの自分は“着ぐるみを着た”ような状態でした。時には困ったお客さんの対応をし、周りで精神が崩壊してしまう女の子も見ながら、着ぐるみだと思っていた自分に段々浸食されていくような気がして、何が本当で何が嘘かわからなくなって病んでいく。書くことが怖くて、顔ではニコニコ笑っているけど、身動きができない状態で」

成り行きで始めた水商売の世界にいつの間にか流されて、小説家になる夢へ向けて踏み出していく勇気が振り絞れない日々が続いた。

「そんな時に、神様からのプレゼントなんじゃないかという出来事があったんです」

自らの内で閉じられていた小説を書きたいという気持ちを、また解放することになったきっかけは作家・山田詠美本人との出逢いだった。それも、なんと当時勤めていたキャバクラでのことだったという。

「編集者の方と一緒に来られた時に『山田詠美先生だ!』と、すぐにわかりました。先生の席に着いた時は、心臓がバクバクして持っていたグラスを落とす勢いでしたね。動き出そうとしない自分に『いい加減にしろ!』と神様が差し出してくれた奇跡かと」

三谷さんはそのとき、前述の人生において多大な影響を受けた1冊、『ぼくは勉強ができない』をたまたま持っていた。発売されて10数年が経過したその本は、家にはいつもあったものの、毎日持ち歩いていたわけではない。しかし、その数日前、ふと読み返そうと思い立ち、通勤に使うバッグの中に本を入れた。

「ところが、本を持ち歩いていても読み返すことができないんです。それは自分に嘘をついた暮らしをしていたからだと今ならわかります。その本を読んだ時に感じた自分の気持ちと、当時の私は真逆の生活をしていたから。なのに、そんな私のところに本を書いたご本人が来てくれた。奇跡だ、と思いました」

15年間傍にあり続けた宝物の本に震える手でサインを貰い、心を決めた。

「ずっとファンだったとは伝えたけれど、何もしていない今の自分で、『小説家になりたい』なんて情けなくて恥ずかしくて絶対に言えなかった。時間がないとか、まだ時期じゃないとか言い訳しながら書くことから逃げていた自分が恥ずかしくて、 それでも、やっぱり私は書きたいんだ、って気づいて。その日は高揚して眠れませんでした」

それから昼も夜も働いて3ヶ月間の生活資金を貯め、それから東京の生活を全て整理して鹿児島県・沖永良部島へ渡った。


これまでのしがらみをかなぐり捨てて、周りには海しかない環境で、小説を書くことにどっぷり浸かる半年間。最初は、山田詠美の作風を真似た完全劣化コピーのような文章しか書けなかったという。それらを、何度も何度も内から出てくる自分の言葉に替えて書き綴り続けた。

半年かけて生み出した作品を「原稿募集」と書かれていた小学館へ郵送、「なかなか面白い」と編集長の目に止まったことからデビューをするきっかけをつかんだ。それから、通算3年をかけてデビュー作『ろくでなし6TEEN』を出版。28歳、やっと永年の夢だった1冊の本が世の中に届けられた瞬間だった。


不器用で大胆かつ繊細な女子高生のリアルを描いた渾身の作品は、販売数こそあまり伸びなかったものの高い評価を受け、それから第2作目となる『腹黒い11人の女』を出版。疲れ果てていたあのキャバクラ時代に、抱いていた葛藤や本音、それでもわずかな希望が奇跡を起こし、一歩踏み出せたあの思いを込めて書いた。

「あのときの自分は、『私が見せたい世界を見せるの!』という想いで必死でした。自分にとって残しておきたい想いだったり思い出だったりを、小説という仮想現実でめいっぱい表現する。過去の自分への清算のような、他者がそれを読んで共感してくれることで、自分の在り方やいる場所を確かめる手段だったようにも思います。同時に、諦めて生きるんじゃないよって思いも込めて。 自分にとっての命綱のようなものだったのかもしれない、と今振り返ると思います。とにかく、必死でしたね」

1冊の本が自分の人生を動かしたように、また自分の書いた本も誰かの希望だったり、「一人じゃない」と思える救世主になるかもしれないという、強い願いを形にするために文章を書いていた。


→第4章(2016年1月5日公開予定)に続く。