海辺の生と死。『未来住まい方会議』と『幸せな死に方』について(後編)

さて、YADOKARIが発行する思想系ポケットカルチャー誌月極本2『幸せな死に方』について。

この「幸せな死に方」というテーマを聞いた時、創刊2号目から攻めるなー! と思いました。

でも、同時にすごくタイムリーだな、とも。


私は加計呂麻島に来る前の年、2012年に祖母を亡くしたのですが、そこからずっと人が老いて死に、残されたものについてを考えていて。

その一連の出来事がようやくこの春に終わったのです。


そのいろいろがある間、もちろん辛い気持ちにもなったんだけど、これは祖母が老いて死に、残された者たちがさまざまな感情や気持ちを味わい、大きなものに気づく学びだったんじゃないかとようやく思えて。


そう思えた時に、この月極本2『幸せな死に方』が届いたのです。


冒頭には谷川俊太郎の詩「誰にもせかされずに」が収録されています。


これを読んで、去年の5月に書いた自分のブログ

「父からのメール。「iPhoneから送信」と『生きているということ』」

http://ameblo.jp/akikomitani/entry-12024283750.html

を思い出しました。


このブログは昨年父が奄美を訪れた時のことを書いたもの。


「お父さん、足腰が悪くなってから、もう動けなくなってから『島を巡る旅をしたかった』って言われても、私は何もできないんだよ。『連れていく』ことはできても『お父さんが自分で体験する』ことは私はできないんだよ」

それから、一呼吸置いて私はこう言いました。

「私は後悔したくないし、お父さんにも後悔して欲しくない」


そんな話をしたあとにすごいタイミングで谷川俊太郎の『生きる』を中学生が集落放送で朗読する声が聞こえてきて。


「お父さん、生きているということだよ!」


海辺のデッキでお風呂上りにビールを飲みながら、私は熱弁しました。


するよね、そりゃ熱弁も。と、当時の私に他人事のように思います。


『月極本2 幸せな死に方』では、冒頭の「誰にも急かされずに」から始まり、未来の住職塾長の松本紹圭さんのスペシャル説法『「幸せ」を先送りにしていませんか?』が始まり、Webサイト『未来住まい方会議 by YADOKARI』で紹介してきたタイニーハウス、モバイルハウスの事例を特集テーマに合わせて再編集した『「終のすみか」にしたい世界の小さな住宅案内』に続き、ムーミンの産みの親、トーベ・ヤンソンの暮らしに迫る特集に続きます。


私が無知だったんですが、トーベ・ヤンソンって女性だったのね!


そして、1964年から30年ほどフィンランドの孤島「クルーブ・ハル」で毎年夏を過ごしていたそう。島暮らしで猫も一緒だった、というところにも親近感。記事内で紹介されている島での生活を記録した映画『ハル、孤独の島』も見てみたくなりました。


この月極本は彼らが提唱してきたミニマルライフについての一つの答えが出ている本だと思います。


前編の「ミニマルライフは人間の欲求に反しているのではないか」という問いは、「人間の欲求とはそもそも何なのか」というところから始めなきゃいけなくて、欲求を突き詰めると「でも、みんな死ぬしね」というところに行きつくと思うのです。


拡大や発展の欲望は、死ぬことを見ないようにできる部分があって、でも見ないように生きるのってなんでもやっぱり気持ち悪い。見ないようにすると、本当に生きているって感じがしない。


ミニマルライフの思想って,ちまたで言う断捨離や解毒といったような「減らしているようで実は手放してはいない、減らすことによって何かを得ようとしている」欲望ではなく、実は「本質って何?」という問いかけをライフスタイルに落とし込んだものだと私は思っていて。


その問いかけをすると、「生きるって何?」「死ぬって何?」ってところに当然行きつきます。


今回の『未来住まい方会議』のほうは「生きるって何?」を問いかけた本で、『幸せな死に方』は「死ぬって何?」を問いかけた本だと私は思っています。


私もこの数年間、祖母の死をきっかけにして自分に問いかけたのは結局この二つだった、と最近気付きまして。


すごくハードだったけど、先ほど引用したブログ「父からのメール。「iPhoneから送信」と『生きているということ』」に書いたように、父に対して「いつか死ぬことと今を生きること」を話せたのも、今加計呂麻島に住みつつ各地でそれぞれに不思議なご縁があるのも、文章を書くことを見つめなおせたのも、私は祖母の老いと死と、それによって残された者たちのさまざまな感情の交錯を経て「生きるって何?」ということを、問いかけられたからだと思います。


最近、死ぬことと生きることはひとつだな、と思うようになって。

私は今、見たいものを見るために地上にいる、という感覚なんですよ。


そう思うとこの世のすべては自由以外の何物でもない、という気持ちになります。


『未来住まい方会議』のあとがきで、さわださんは「10代の頃から自由を求め続けていた」と書いていて、『幸せな死に方』では、ウエスギさんが座談会で「今YADOKARIを頑張っている理由も全て愛してほしい、つながってほしいというところに行き着くのかもしれない」と言っていたけど、実は生と死について考えるとすべては自由で繋がっているということに気づく。


そう、私達はすべて自由で、繋がっている。

そして、その上で、冒険をしている。

胸のときめくような、選択を経て。


そんな風に思い至る2冊でした。


ちなみに、その後、元副編集長のスズキガクくんが奄美に遊びに来てくれてこの2冊のことを話したんだけど、

「ていうか、この2冊すごくない? 私、すご過ぎて嫉妬したよ!」

「本当、僕もです。関われなくて悔しいくらいですよ!」

と、語り合っちゃったくらいいい本です。まじで。


「悔しいって思えるぐらい、いいもの作ってる人たちと関われてよかったよね」


そう、それも胸ときめくような選択と、自由と無限の繋がりなのです。